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人権ベストプラクティスについての研究・相互学習とネットワーク形成プロジェクト(トヨタ財団国際助成)ー まんまるママいわて 佐藤美代子さん(ピンキーさん)インタビュー
まんまるママいわて (https://manmaru.org/) 佐藤美代子さん(ピンキーさん)インタビュー (2022年10月15日オンライン) を公開しました。
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インタビュー概要
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インタビューの背景:
キハラハント愛代表「アジアにおけるコロナ対策の民間による人権ベストプラクティスについての研究・相互学習とネットワーク形成」プロジェクトは、本来国家の義務である人権擁護を、コロナ禍の中でNGOやビジネスアクターなどの非国家主体が主体的に行って来たことに注目している。これらのベストプラクティスについて、相互に学び合い補完し合うための国際的なネットワークの形成を目指す。このプロジェクトの中で、ベストプラクティスとしてプロジェクトのパートナーになっている団体より、コロナ禍だけでなく自然災害などにおいても、コミュニティのレジリアンスを構築することの大切さが指摘され、そのような体験をシェアして相互に学び合いたいという希望が出された。そのような団体や個人を探すうちに、日本の東北地方で、東北の震災の後に授乳婦さんたちのために動く「まんまるママいわて」さんの、裨益者であるコミュニティに近く、そのニーズを細かくくみ取って活動する様子を紹介していただき、代表の佐藤美代子さん(ピンキーさん)にインタビューをさせていただくことになった。
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キハラハント:
今回のインタビューで主に伺いたい点として、まんまるママいわてさんが東日本大震災後、被災地の授乳婦たちという特殊なコミュニティのレジリエンスをどのように構築し、あるいは構築の手助けをしてきたか、ということがあります。
1.まず簡単な自己紹介をお願いします。
佐藤(以下「ピンキー」):
岩手県出身で、岩手の医療局で5年務めていました。岩手の産婦人科がどんどん減って、救急車や車の中で出産する人たちを見て、開業の道を目指して、夫を岩手に残したまま、一人で東京に修行に行って、開業をするという道を辿っています。岩手に戻ってきて、分娩できる助産院をやろうと思ったら、医師不足でダメになって、もがいていた時期に東日本大震災が起きました。震災のお母さんたちのために何か動きたいという課題があって初めて、今の活動を始めました。それから12年経ちました。
2.東日本大震災被災地の授乳婦たちのコミュニティが災害後どのような状況に置かれていたについて簡単にご説明いただけますか。
ピンキー:
震災直後岩手県にいて、テレビもラジオも全部途絶えていたので、内陸部では何が起きていたのか分かりませんでした。翌日の夜中に花巻市で電気が通じて、初めて大津波を知りました。私自身は5ヶ月の赤ちゃんと3歳の子供と自宅にいて、花瓶が割れていたり、テレビが割れていたり、というような震度6−7の大地震という意味では被害を受けましたが、津波の被害は受けなかったです。当時は自分では被災していると思っていませんでしたけど、思えば電気もつかない中で、3月の寒い岩手の夜を子供たちと過ごしたのは被災したということだと、今になって思います。当時は「東日本大震災イコール大津波」だったので、お母さんたちの状況を心配し始めたのは3月12日に一斉にメールが流れてきてからで、岩手思春期研究会という産婦人科のドクターなどが入っているメーリングリストで、岩手県宮古市という海の方から、分娩のために岩手医大まで来て産んだ人がいるということを知りました。しかし、その人は家が流されてしまって、帰るところがなく、この人たちは大変だからなんとかできないか、というそのメールで、震災の支援を始めようと思いました。東日本大震災の時、沿岸部には全部被害が及んでいたのですが、子供が泣くから妊産婦は大規模な避難所にいられなくて、皆それぞれ親戚のところに身を寄せるなり、車にいるなりバラバラでしたので、妊産婦さんがどこにいるのかが分からなかったのが事実です。
3.東日本大震災に影響された多くの人々の中で、なぜとりわけ被災地の授乳婦たちを対象として、支援を行いたいと思ったきっかけを教えていただけますでしょうか。
ピンキー:
メーリングリストから流れてきたメールを見て、自分自身は助産師でしたが、自分はフリーだったので、病院に所属していなくて、この大災害があった時に、医療者であることにジレンマを感じました。本当は医療者として、いますぐ助産師として支援をしたいのに、何もできないという時に、妊産婦さんが大変だという情報が入ってきて、やっぱり、助産師として支援する相手は妊婦さんやお母さんたちだと思ったのは迷いがなく、そこを対象にしました。
4.授乳婦たちのレジリエンスが大事だと思った理由を教えていただけますか。
ピンキー:
すぐにレジリエンスという意識はしていなく、私が支援する場合、3年間は支援しようと非常に強く思っていました。1つは阪神・淡路大震災の時の臨床心理士さんが助産師の研修会に入ってきた時に、あなたたち自身も被災されていると言ってくれました。気持ちに波があってもいいと言ってくれて、自分自身の気持ちを大事することを初めて意識しました。助けなきゃと思っていたお母さんが元気になって、何かをしたいと言ってくれて、女性には回復力があることに気づきました。実は支援はまんまるママいわてのマークと同じく循環していて、助産師からママへ、ママから助産師へ、ママからママというようにエネルギーは回っているのを知ったのが理由です。
5.授乳婦たちのレジリエンスを構築するには、被災された授乳婦たちが集まることが重要だったのでしょうか。なぜそう思われますか。
ピンキー:
集まって初めて知ったのは悲惨な災害があった時に被災者の方々が自分たちで格付けすることです。例えば、うちはまだ良い方だとか、私は内陸だから家は流されていない、被災していないとか、家は流されたけど、生きているとか、死んだけど、遺体が見つかったなど、うちより悲惨なことがあるからと我慢する人が多かったです。我慢が美徳の東北人にとって、特にそのような現象が見られます。お母さんが集まった時に、大変だと思ったら言っていいとか、嬉しい時に笑っていいとか、家では誰にも言えないことを言えるようになりました。自分の気持ちを喋ったところで、一対一の関係だったら、わからない可能性がありました。しかし、同じ経験をした人が集まることで、話し合うことが非常に大事だと思います。
キハラハント:
我慢が美徳な東北人とおっしゃったように、岩手ならではレジリエンスだったのでしょうか、あるいは他のところにも「輸出」できるものなのでしょうか。
ピンキー:
岩手ならではの形だという気がします。やっぱり地域のコミュニティが強いからこそ、半分外、半分中の私たちに言えることがあったのです。コミュニティが強いので、もし当地の人だと知り合いである可能性が高く、口を閉じる場合もあります。岩手ならではのコミュニティの狭さだからこそ、この半分中、半分外の立場が役に立ちました。それに、岩手の人は言わないことが多く、例えば男尊女卑みたいなジェンダー感覚が多かったです。男が偉い、男に尽くすのが当たり前と思う人が多いです。沿岸部と比べて、私と本人たちの感覚にもずれがあるし、岩手の人の私と比べて、東京の人の感覚との間にもずれがあります。その意味で、この支援は半分中、半分外の私たちだからこそできることだと思いました。
6.ご自身が被災者であり、小さなお子さんを持つお母さんだったということが、同じような立場の方々が立ち上がる力を助けるのに役立ったでしょうか。もし役立ったようでしたら、どのように役立ったとお考えですか。
ピンキー:
今思えば、不安な気持ち、弱い気持ちに心の底から共感できていました。当時は自分が被災者という思いがなかったけれど、余震があったので、いろいろ大変な思いをしました。例えば、おむつなし育児という特徴的なエピソードがあって、おむつを外して、おまるにさせる方法です。なぜなら、より大きな地震がおむつを外した瞬間に来るのを恐れて、災害時におむつが手元に少なくなっても大丈夫な方法として、このおむつ無し育児をすすめるような心の余裕がなかったからです。「こういう方法があるよ。」とメーリングリストから流れてきた時に、非常に腹立たしい思いでした。もし、自分に小さい子供がいなかったら、その不安や恐怖を心の底から共感できなかったと思います。今思えば、産後の非常にハイな状態だったかもしれませんが、産後5ヶ月から支援を始めて、ずっと12年間走り続けてきました。今は産後5ヶ月のお母さんが赤ちゃんをおんぶして活動しているのを見ると、「まだ急がなくていいよ」という言葉をかけるけど、あの時は産後のハイテンションで夜も寝ずにメールを打っていました。このような産後のおかしい状態は、その時の当事者だったからこそ共感できます。
キハラハント:
そこにいることが大事というメッセージが伝わってきました。それは当事者で共感できるから、寄り添うことができたのでしょうか。
ピンキー:
当時立ち上げた4人の1人がもう50代だったので、お母さん世代の当事者ではなかったのですが、共感という意味では、私ともう1人の助産師は自然分娩を解除するという経験をしていました。実は助産師として、本当にできることは寄り添いなのです。辛い時に、「辛いね」って、そばで寄り添って、赤ちゃんが生まれたらそれを受け止めるという仕事です。喋りたくなければ喋らなくてもいいし、「泣きたければ泣いていいよ」と寄り添います。膿ができても、傷口が開いても、傷が治るまで一緒に寄り添って、そばにい続ける覚悟ができていました。
キハラハント:
寄り添い続けてご自身が落ち込んだりはされるのでしょうか。そのような際のご自身のケアはどういう風にされているのですか。
ピンキー:
各個人で違うと思いますが、私自身は、阪神の臨床心理士の先生に出会って、「落ち込んでもいい」とか、「落ち込んでまた上がって、というのは普通だよ」と言われたのが大きかったです。私が支援者でなければならない時に、泣いてはいけない、震災うつなどでしんどい時があっても泣いてはいけないと思っていたのですが、その先生に出会ってからは、しんどい時、震災うつの時とか、3月11日に悲しくなったら泣いてもいいと分かったのは非常に大きいです。あとは、個人的には、この12年の活動で自分と他者を離して考えることができるようになってきました。お家に帰って、人と話したことを考えて眠れないことはあまりないです。あと、研修でお泊まりすることが多くて、それが自分の中で結構大事で、現地を離れることが大事だと気づいて、そこで自分を癒します。例えば、東京で研修する時、美味しいものを食べて、良いホテルで泊まることによって、自分は元気をもらいましたので、意識的に出張しています。自分のケアはそういうところでするようにしています。
7.同じような支援を授乳婦ではない方が行おうとした場合、または、被災者ではなく外から来た個人または団体が行おうとした場合、同じように支援をしながらレジリエンスを構築することを支援していくことができるとお考えですか。
ピンキー:
被災者じゃなくてもできます。個人的に非常に大事だと思っているのは、継続すること、同じ顔が毎回来るということです。どんなに経験が豊かでも、学識が高くても、1回、2回では、この活動のレジリエンスを構築することは多分無理だと思います。外から来た人はよく、「当事者が立ち上がらなければ」と言って、ものとお金だけをくれるけど、彼らにとって復興は一種の自己実現かもしれませんが、当事者たちにとっては、復興は衣食住という基礎的な話ですから、そのような突き放すやり方はあまりよくないと思いました。外部から来た人が、「話を聞いてあげる」って言って、本人たちを見て、「思っていたより元気だな」とか、「綺麗な服を着ている」と言って、お母さんが傷つくこともたくさんありました。最初はあまり話さないけど、例えば2ヶ月後とか3ヶ月後とかにまた来て、そうやって1年後にようやく「実は震災で両親なくして、こんな時に妊娠していて申し訳なかった」などと打ち明けることが多いです。なので、外から支援することは可能であるけれども、とにかく継続することや同じ顔が繰り返し来ることはとても大事だと思います。
8.逆に、ご自身が被災者であり、小さなお子さんを持つお母さんであるということで支援が難しくなったことはありますか。
ピンキー:
パッと動くのが難しいとか、泊まりがだめだったり、時間的制限があったりはしました。また、家族の協力も薄かったです。我が家は古いお家なので、夫に「何やっているの」、「いつまでやっているの」と言われたりしました。子供を連れてきて活動すると、「赤ちゃんをこういうところに連れてくるのは非常識」と直接言われはしないけれど、「無理しなくてもいいですよ」と言われたりしました。
9.(まんまるママいわてさんの支援によって)授乳婦たちのレジリエンスはどのように構築されていったとお考えでしょうか。
ピンキー:
繰り返し同じ人が同じ場所に行くことが大事です。実は、ほとんどの人は、元の生活に戻ろうとしています。「復興」というのは新しい地域を作るというより、元の生活に戻ろうとしています。沿岸の女性たちに会って思ったのは、自分たちがロールモデルになっているということです。私たちが、同じ女性、同じ子供を産んだことのあるお母さんという立場で好きなことをやっているということは、東北の沿岸の人にとって衝撃的なことでした。そういう意味で、ロールモデルでした。また、助産師の資格をもっていることが自分の強みであるように、いろんな資格をもっている女性が集まることで、私も勉強してみたいという気持ちが初めて芽生えて、それを実現する人が出てきています。
キハラハント:
外から入ってくる人でも支援者の立場ではない方がいいですか。あるいは外から来る人でも、支援者ではなくて、より寄り添う形の方が良いでしょうか。
ピンキー:
外から来ても別に大丈夫だと思いますが、中長期的にレジリエンスを構築する上でやっぱり、継続することが大事だと思います。
10.支援事業を立ち上げる際に、どのような困難に遭われたでしょうか。その際、いかにそれを乗り越えられたのでしょうか。もし具体的なエピソードがあれば教えていただけますか。
ピンキー:
そうですね。そもそも支援事業を立ち上げる気持ちで活動を始めていないのです。「目の前に困っている妊産婦さんがいる、行かなきゃ」という気持ちで行き始めたので、最初は事業計画がなかったのです。困難だらけでした。最初はやはりお金がなかったのですが、でもすぐにお金を出してくれる人が出て来て、行けば行った分、お金を出してくれる人がいたので、行きました。最初は2、3年行けばいいと思っていたのですが、全然終わりませんでした。3年目に一番金銭的な壁があって、3年目にストップするものがいっぱいありました。初めて自分で資金を獲得しなければいけない時だったので、そこが一番大きな困難でした。そこで初めて事業計画を書きました。それまで事業を立ち上げた4人で仲良く決めていたことも、ミーティングを開いて相談しなければならないことになって、誰がどの役割をするとかの話になると、「みよちゃん、変わったね」と言われて、悲しい気持ちになりました。また、研修に出ると、英語がたくさんあって、そもそもコミュニティって何なのかがわかりませんでした。でも一番の困難はやはり、最初に立ち上げた4人で続けられないかもしれないと感じた時に、ソーシャルな活動だから、本当は自分自身が否定されたわけではないのに、そこの棲み分けができていなくて、自分自身と今までやってきたことが否定されたような感じで、その人が抜ける時はすごく不安でした。また、何が正解なのかという問いの答えは自分が考えなければならないと気づくのは大変でした。2014年―2015年の辺りが一番大変でした。
11.事業を実施するにあたって、何か常に心掛けていること・大事にしていることがありますか。
ピンキー:
現場主義で、現地に行くことをとても大事にしているし、お母さんは一人の女性であるということも非常に大事にしています。どんなお母さんも見捨てない、尊敬する気持ちはスタッフみんなに持ってほしいです。スタッフ個人も人として大事にしたいと思います。
12.この事業を立ち上げて良かったと思った瞬間についてお伺いしたいです。
ピンキー:
お母さんが元気になって行って、色々なことに取り組んだりするのを見ることですね。高校の時に被災した女性が教師になって、出産時にまんまるママいわてを利用していました。彼女に「私は教師をしているけど、違う仕事を立ち上げたいと思っていました。みよさんを見て、教師を辞めたい気持ちがより強くなりました。自分の夢を諦めたくないです。」と言われました。その時に、「この活動をやらなかったら、このようなお母さんに出会うことはなかったな」と思いました。もし自分だけが行って、団体を拡大しなかったら、こんなに色々な人に出会わなかったですね。私以外のスタッフに影響を受けているお母さんがたくさんいて、まんまるスピリッツを持っているスタッフがいて、まんまるに通ってよかったと思うお母さんが増えていったのは、本当に事業にチャレンジして良かったと思っています。
13.工夫してうまくいった取り組み、また、今ある取り組みで、これから例えばこの部分についてもっと工夫したいというところがあれば伺えますか。
ピンキー:
「コミュニティオーガナイジング」という手法を取り入れたのですが、これが良かったです。工夫したい点は、本来は当事者が意見を出して立ち上げる活動だということは非常に大事なのですが、今は余力がなくてエネルギーがさけていません。宿泊型の産後ケアの話もあったりして、本来の当事者の意見を反映させた事業という面に取り組めていないと思っています。もっとたくさんのお母さんに出会って、この活動を評価していきたいなと思っています。
14.産後ケアについて、国の政策の側面から、または社会的支援の側面から、今の日本社会に足りていないところについて教えてください。
ピンキー:
一応、産後ケアについては、国の方で「やれ」と言われていますが、実はやっているのは市町村で、各市町村のやり方やお金の出し方が全く統一されていないのが課題だと思います。もっと国が本格的に中身を見て、予算も確保して、ちゃんと行き届くものにしてほしいです。日本社会全体として女性軽視が問題であって、例えば、産後ケアをやっていると、産後だけが大変だとか、子供がいる人だけが大変ではないというような世論が出てくるのですが、そういうところが問題です。岩手では、女性の議員が少ないし、「産後ケアをやったところで、少子化防止には繋がらない」と発言する議員もいたりしますが、産後ケアは実際に女性のエンパワーメントに絶対に寄与していて、育児に対して、積極的になれる事業だと思います。社会的な認知が足りないし、お金の投資が足りないかなと思います。
15.東日本大震災から11年がたちましたが、被災地支援を行っている事業も数多くあります。実際に被災地支援に携わったところでまだ支援が及んでいない、あるいは足りていないと思うところがありますでしょうか。
ピンキー:
私たちが入っている地域でも当時大変だったのですが、そういう事業を知らなかったとか、非常に辛い育児をしたという方がたくさんいらっしゃったので、やはり、災害が起きたときイコール妊娠している女性がいる、赤ちゃんを持っている女性がいるということが当たり前になるように、そこに支援が入るような世の中にしなければいけないなと思いました。
16.今後の計画について伺いたいです。
ピンキー:
私たちは今デイサービスという形でやっていますが、まんまるママいわてとしては5年以内に宿泊型のケアに取り組むというところまで進んでいます。たくさんの妊産婦さんに会ってきて、自分の夢を諦めている女性がたくさんいることに気づきました。自分が何歳で結婚して、子供を産むのか産まないのか、産むとしたら何歳で産むのかということを自分で決める権利が守られていないです。「自分は夢を持っていい」とか、「何でもチャレンジしていいし、やりたいことをやって良い」、ということを知らない若い女性がたくさんいました。岩手だから、あるいは女性だから諦めているという人がいました。私としては若い女性のエンパワーメントに関われる何かにしたいと思います。
17.自然災害の被災者のレジリエンスを構築したい方や団体、または産後ケアに関わる人や団体にアドバイスなどあればお願いします。
ピンキー:
当事者の声を聞いて一緒にやることが大事です。助産師たちはすごく「やってあげる」感があって、それだといつまでもうまくいかないので、まずは近くにいるお母さんと信頼関係を作って、「その人たちはどういうことを必要としているのか」という、地道なことに気づいてほしいです。また、長く関わる気持ちが大事だと思います。
キハラハント:
「コミュニティオーガナイジング」という手法はピンキーさんが選んだのですか。
ピンキー:
2004年に研修を受けていたのですが、実は当時はお金が切れる時期だったので、声をかけられた研修に色々出ました。最初は、横文字だらけで全く分からなかったです。多分、百姓一揆とかは日本にもあった考え方だったけれど、それを学術的に系統化したのがハーバード大学のマーシャル・ガンツ先生で、それを日本にも作ろうと「コミュニティオーガナイジング・ジャパン」ができました。創設期の「コミュニティオーガナイジング・ジャパン」も実績が欲しかったようで、コミュニティオーガナイジングの手法で事業をやりたい団体を募集していました。「今だったら、日本財団のお金で伴走支援をするよ」と言われて、4日間のワークショップで仮想の団体を作って、その後、1年間のコーチングを受けて、ワークショップでやった内容を実践しました。今でも月に2回、ピアコーチングの時間をとっています。
キハラハント:
リプロダクティブライツに関して、産まないという選択をする人はほとんどいなかったのですか。
ピンキー:
いや、むしろ逆に産みたいけど産めない人もたくさんいました。夫が出産に反対する人をたくさん見てきました。避妊に非協力的なパートナーとか、避妊の男性任せとか、産めないのに妊娠した人もたくさんいました。本当は自分の選択なのに、夫がどうしたいのかで決まっていて、なので、「中絶はあり得ない」というよりも、中絶させられるという話がたくさんありました。
キハラハント:
最初のお金は震災だからお金が集まっていたのですか。
ピンキー:
その時に一番お金を出してくれたのは一般社団法人ジェスペールを立ち上げた宗さんという助産師です。当初は妊婦さんが東京に避難してくると思っていたので、日本の財団から一斉にお金が集まってきたのですが、思っていたより東京に避難に来なくて、そのお金を現地の助産師に使うことになりました。そこからの資金が一番大きかったです。
キハラハント:
最後に、こちらからの質問へのお答えで言い切れなかったことなどがありましたら、お願いします。
ピンキー:
活動の対象となる方々が、被災者とかお母さんであるとかいうことでなく、一人の女性であるということを大切に活動をしてきました。「○○ちゃんのママ」と呼ぶより、お名前で呼ぶことが大事でした。お母さんを一人の女性であることを大事にしていました。女性を大事にしたいと思ってきました。
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インタビューアーの後書き
東日本大震災の被災地の授乳婦さんたちととも活動する、「まんまるママいわて」のピンキーさん。当事者の方々の寄り添い、一人一人の人として大切にしながら寄り添う姿勢が、非常に印象的でした。レジリアンスを外から築くのでも中から築くのでもなく、当事者の方々のありのままがありのままに支援できるように、半分外、半分中から共に歩んでいるとように感じました。東北という要素、特に当事者のコミュニティにおける家族像や男女の関係性、助産婦さんとしての視点と技術、半分当事者という立場、そして共感。支援にも、レジリアンス構築にも、様々な形があるのではないかと考えさせられました。
語り手:まんまるママいわて 佐藤美代子さん(ピンキーさん)
インタビュー:キハラハント愛
インタビュー記録:宋漢君
編集:キハラハント愛・北川拓人
文責:キハラハント愛